自分がこの世に存在していい理由
このブログでは何度か「自分がこの世に存在していい理由」をテーマに記事を書こうと試みてきましたが、なかなか最後まで書ききることができませんでした。 ところが先ほど何度目かのトライをしていたら、GitHub Copilot がブログの続きを書いてくれて、めでたく脱稿することができました。 記念のスクリーンショットを貼り付けて、「自分がこの世に存在していい理由」のブログ記事としたいと思います😌✨
このブログでは何度か「自分がこの世に存在していい理由」をテーマに記事を書こうと試みてきましたが、なかなか最後まで書ききることができませんでした。 ところが先ほど何度目かのトライをしていたら、GitHub Copilot がブログの続きを書いてくれて、めでたく脱稿することができました。 記念のスクリーンショットを貼り付けて、「自分がこの世に存在していい理由」のブログ記事としたいと思います😌✨
あんまり哲学には詳しくないですが、デカルトという人が「我思う、故に我あり」ということを言ったそうです。 この世についてなんも確実なことは言えないけれど、「この世についてなんも確実なことは言えない」と考えている自分は確実に存在してそうだ、ということだそうです。 「我」ってなに? 「我思う、故に我あり」で、「我」というものが当たり前のように言及されていて、ちょっと不思議です。 「この世についてなんも確実なことは言えない」と考えている自分は、本当に「自分」なのでしょうか? もし「この世についてなんも確実なことは言えない」と考えている人がたくさんいるとしたらその共通認識とはいったいなんなのか…… という話がしたいところですが、ちょっとややこしくなりそうでこの記事では一旦置いておきます。 観測主体が観ている「この世」を「我」と呼ぶ デカルトが言っているのは「観測主体」に相当するものが確かに存在していて、「観測主体」が「存在を検討するに値するもの」と認識しているものが確かに存在しているということかもしれないです。 つまり、「存在を検討するに値するもの」は確かに存在しているらしい、ということです。 ここで、「存在を検討するに値するもの」を「我」と呼ぶことにします。 「我」がなんだかよく分からない問題も、「存在を検討するに値するもの」に対する名付けの問題だった、ということにすると話が簡単になります。 「神」は存在するか? ところで「この世」には「存在を検討するかどうかの俎上に載らないもの」があります。 観測主体が「この世」のすべてを観測下に置いているかどうかというとちょっと分からない訳です。 この「観測主体の観測下にないもの」を「神」と名付けることにします。 こうして、言葉の上で「この世」には「神」か「自分」かしかいない、という定義を与えました。 「(辞書的な意味での) 神が存在するか?」 という問いも、「「神」の領域に (辞書的な意味での) 自分が思い浮かべるような (辞書的な意味での) 神が存在するか?」 という問いに変わり、そして答えは「(辞書的な意味での) 神は、少なくとも「自分」の裡に存在する」ということで決着がつきました。 「観測主体」も観測対象なんですね。 (「観測主体」も観測対象である話をすると (辞書的な意味での) 自分とはなにか、とか、意識とはなにか、とか、話が脱線するので別の記事で書こうかなあと思います) 神と自分との境界 「この世には神か自分かしかいない」ということにすると、見えてくるものがいっぱいあります サイエンス:神の正体を暴くこと アート:神と戯れること それっぽいでしょう? ここで、自分の認知の限界の境目というのがすごく価値がある気がしてきます。 一般に境界線を厳密に決めようとすると、その境界線を引くのに必要な単語が無限に必要になる気がします。 神と自分との境界はそれだけ「面白い」ということです。 この世には不思議がいっぱい! 「神」の存在を認めることがいわゆる「無知の知」ということです。 無知の知は、なんか「人間は謙虚でなければいけない」みたいな文脈で使われる警句みたいになりがちな気がしますが、実際のところは実践が難しい類のもので、謙虚さを身に付けることでどうにかなるようなものではないことが分かるはずです。 朝起きたら東京のイケメン男子高校生と入れ替ってて、これを「無知だったなあ」と思って心を入れ替え新しい日常を送るのは現実的に難しく、大抵は「どうしてこんなことが……」と頭を抱えて考え込んでしまうはずです。 東京のイケメン男子高校生として人生謳歌すればよいのに、うっかり余計なことを考えて勿体無いことをしてしまうのが人生です。 映画のようにはいきませんね。 でも「神」の存在を認めると、この世の不条理を目にしても、その理不尽にもなんか自分の知らない事情があったらしい、という気持ちになれる気もします(`・ω・´)
2024 年になったので、今年の目標を立てようと思います。 毎日ごきげんに生活する 昨年はいろいろあった年でしたが、「毎日ごきげんに生活する」という誓いが強力にはたらき、無事によい一年を過ごすことができました。 一年前のこのブログでの予告通り、今年も「毎日ごきげんに生活する」を頑張っていきます。 もしかしたら来年の目標も「毎日ごきげんに生活する」になるのかもという気がしてきました(`・ω・´)
次の表裏一体シリーズは「面白い」と「幸せ」です。 これらの意味は以下の通りで、 「面白い」とは「生きていること」 「幸せ」とは「死んでいること」 です。 もう少し別な言い回しをすると、 「面白い」とは「結末が分からないこと」 「幸せ」とは「先が見えていること」 もう少し別な言い回しをすると、 「面白い」とは「時化」 「幸せ」とは「凪」 つまり、 「面白い」とは「情報量が大きいこと」 「幸せ」とは「情報量が小さいこと」 です。 状況が切り替わる瞬間が一番「面白い」 人生で最も面白い瞬間は 2 回あり、生まれてくるときと、死ぬときです。 「幸せ」な人生とは、生まれてから死ぬまでに、なにもエピソードがない人生を指すのかもしれません。 人間関係で最も面白い瞬間もやっぱり 2 回あり、出会うときと、別れるときです。 出会ってから別れるまで何も起こらない関係性が「幸せ」な人間関係ということになるのかもしれません。 でもそれって「面白い」? 追い詰められた人間は「死」か「幸せ」かの選択に迫られている もう死ぬしかない、というのはつまり、これまで通りの人生を歩めない状況に置かれている、ということです。 人生の残酷なところは、どれだけヤバい状況に置かれても、人体が元気ならばその後も変わらない日常を送らなければならないところです。 死ぬしかない、という追い詰められ方をしているときは、これまでの生活にしがみ付いているのかもしれません。 これを一般に執着と呼びますが、この話題はまた別の記事にしようかなと思っています。 「幸せ」になりたくない人間は「死にたくない」ような挙動をしている 「幸せ」になってしまったら、もう二度と後戻りできない、ということになります。 人間が本能的に死を恐れるから、「幸せ」になるのもまた悍ましいのかもしれません。 よく人生のステージみたいな言い回しを聞きますが、それはつまり人生で何度死んだか、ということと捉えれば、なんかしっくりくる気もします。 それはそれとして、人生観の変化は非連続という感じがしています。 なんか別の話になってしまいました。 迷ったら「面白い」選択を取る ここまで理解していれば、死ぬほど追い詰められても肉体的に死ぬ必要がないことが分かります。 ということで、迷いなく「面白い」ほうの選択肢を選びましょう。 「面白い」選択をたくさんとれば、振り返ったときに人生楽しかったと言えるような気がします。 個人的には生を実感できるのでオススメです😌
愛とはなにか、というのがなんか人類のテーマっぽい感じに語られているような気がします (ほんまか?) それがなんなのかよくわからない、というところに奥深さを感じられるからかもしれません。 Wikipedia を見てみても、たくさんポエムが書いてあって、結局なんだか分からない感じもします。 そういう神秘性に溢れた単語について、弊ブログでさくっと書いちゃおうと思います。 「愛」とは「相手に真実を伝えること」 「愛」とは「相手に真実を伝えること」です。 じゃあ「相手に嘘を伝えること」は? 人間は「相手に嘘を伝えること」を「優しさ」と呼んでいるようです。 ということで、情報の真偽という観点で「愛」と「優しさ」は表裏一体の関係にあります。 よく考えてみると、「真実の愛」「優しい嘘」という言い回しが脳裏に浮かびます。 確かに、「真実の優しさ」「愛の嘘」というのは、まあそういう言い回しもできるけど、なんか気持ち悪いような気がします。 人間が「愛」について語るのが難しいのは「愛する気持ち」「愛されたときの気持ち」の言語化に苦労しているからな気がします。 「愛する気持ち」「愛されたときの気持ち」というのはクオリアなので、まあ確かに言語化するのはそもそも無理という気もします。 というわけで「愛」とは「相手に真実を伝えること」です。 これを知っていれば人生でもう愛に迷わなくなること間違いなし! 自己愛とは「自分に真実を伝えること」 自己愛は当然「自分に真実を伝えること」ということになります。 よく不健全な自己愛みたいなのを見かけますが、これは単に「ありのままの自分を直視できない」ということです。 自分に自信がないのに素晴しい自分みたいな妄想をしていたり、過度に自分を卑下したり、というのが不健全な自己愛、という感じです。 「愛」が「相手に真実を伝えること」というのは、やっぱりどうもその通りな感じがしてきました。 まあ「ありのままの自分を直視する」のは実際のところ人間には難易度が高い感じもします。 まあでも誰かを愛したいのならやっぱり自分を愛するのが上手なほうがよい気もします。 「残酷」「裏切り」 「優しくしてほしかった人を愛してしまうこと」を「残酷」、「愛してほしかった人に優しくしてしまうこと」を「裏切り」といいます。 だから地球環境は「残酷」なのですね、大自然というのは慈愛に満ちているようです。 「優しい人」は「裏切り者」 人間は大人になるにつれて、相手に嘘をつくための訓練をたくさん受けるようになります。 そして、相手を騙すことが上手な人が「賢く」「いい人」であるかのような価値観に染まっていきます。 実際に現行の社会のルールは、嘘をつきまくるのが正義、というふうになっています。 大人とは「優しく」て「裏切り者」という感じみたいです。 でも大人は肝心の自分が愛されたいときに苦労しているようです。 それは他人に「優しく」することが正義であると盲信しているからではないのでしょうか? 嘘は文学の始まり 小説の始まりには嘘が書いてあり、最後に真実が書かれています。 最後に種明かしが書いてあるから小説は面白いのですね。 ということで、相手に嘘を伝えると、なんらかドラマが始まるということっぽいです。 そしていつか真実を伝えなければいけない瞬間がやってくるのかもしれません。 人生をドラマチックに生きたいなら、自分がどんな嘘をついていて、本音はなんなのか次第ということになりそうです。 これで人生もう愛に迷わない! というわけで、相手に真実を伝えるかどうかの選択をうまくやれば、愛と優しさに困らないぽいことが分かりました。 やったね!
これからブログを書くにあたって、どんな記事を書いていこうかなと考えています。 一般に情報サイトは、最初は書くことがたくさんあって、続けていくにつれてネタ切れになって内容が似たようなものばかりになっていく気がしています。 たとえば有用な情報をウリにしているような YouTube チャンネルはとくに、最初のほうの動画が非常に勉強になる傾向にある感があり、よく最初のほうばかり見てしまいます。 このブログもおそらくこの法則に倣って、始めたての記事が重厚な内容で、だんだんと似たような記事が量産される系ブログになっていく気がしてきました。 ということは、やはり毎日ごきげんに生活するというのが本ブログの最重要記事ということになるのかも? なんだかそんな気もしてきました😌
一年の計は元旦にあり、ということで、2023 年の目標を立てようと思います。 毎日ごきげんに生活する どんな日であったとしても毎日気分良く生活できれば、2023 年はなんだかよい一年だったなあという振り返りができる気がしました。 なんだか来年の目標も「毎日ごきげんに生活する」な気がしてきました。 では頑張ってみようと思います(`・ω・´)
ブログを作った(`・ω・´)