あんまり哲学には詳しくないですが、デカルトという人が「我思う、故に我あり」ということを言ったそうです。
この世についてなんも確実なことは言えないけれど、「この世についてなんも確実なことは言えない」と考えている自分は確実に存在してそうだ、ということだそうです。
「我」ってなに?
「我思う、故に我あり」で、「我」というものが当たり前のように言及されていて、ちょっと不思議です。
「この世についてなんも確実なことは言えない」と考えている自分は、本当に「自分」なのでしょうか?
もし「この世についてなんも確実なことは言えない」と考えている人がたくさんいるとしたらその共通認識とはいったいなんなのか…… という話がしたいところですが、ちょっとややこしくなりそうでこの記事では一旦置いておきます。
観測主体が観ている「この世」を「我」と呼ぶ
デカルトが言っているのは「観測主体」に相当するものが確かに存在していて、「観測主体」が「存在を検討するに値するもの」と認識しているものが確かに存在しているということかもしれないです。
つまり、「存在を検討するに値するもの」は確かに存在しているらしい、ということです。
ここで、「存在を検討するに値するもの」を「我」と呼ぶことにします。
「我」がなんだかよく分からない問題も、「存在を検討するに値するもの」に対する名付けの問題だった、ということにすると話が簡単になります。
「神」は存在するか?
ところで「この世」には「存在を検討するかどうかの俎上に載らないもの」があります。
観測主体が「この世」のすべてを観測下に置いているかどうかというとちょっと分からない訳です。
この「観測主体の観測下にないもの」を「神」と名付けることにします。
こうして、言葉の上で「この世」には「神」か「自分」かしかいない、という定義を与えました。
「(辞書的な意味での) 神が存在するか?」 という問いも、「「神」の領域に (辞書的な意味での) 自分が思い浮かべるような (辞書的な意味での) 神が存在するか?」 という問いに変わり、そして答えは「(辞書的な意味での) 神は、少なくとも「自分」の裡に存在する」ということで決着がつきました。
「観測主体」も観測対象なんですね。
(「観測主体」も観測対象である話をすると (辞書的な意味での) 自分とはなにか、とか、意識とはなにか、とか、話が脱線するので別の記事で書こうかなあと思います)
神と自分との境界
「この世には神か自分かしかいない」ということにすると、見えてくるものがいっぱいあります
- サイエンス:神の正体を暴くこと
- アート:神と戯れること
それっぽいでしょう?
ここで、自分の認知の限界の境目というのがすごく価値がある気がしてきます。
一般に境界線を厳密に決めようとすると、その境界線を引くのに必要な単語が無限に必要になる気がします。
神と自分との境界はそれだけ「面白い」ということです。
この世には不思議がいっぱい!
「神」の存在を認めることがいわゆる「無知の知」ということです。
無知の知は、なんか「人間は謙虚でなければいけない」みたいな文脈で使われる警句みたいになりがちな気がしますが、実際のところは実践が難しい類のもので、謙虚さを身に付けることでどうにかなるようなものではないことが分かるはずです。
朝起きたら東京のイケメン男子高校生と入れ替ってて、これを「無知だったなあ」と思って心を入れ替え新しい日常を送るのは現実的に難しく、大抵は「どうしてこんなことが……」と頭を抱えて考え込んでしまうはずです。
東京のイケメン男子高校生として人生謳歌すればよいのに、うっかり余計なことを考えて勿体無いことをしてしまうのが人生です。
映画のようにはいきませんね。
でも「神」の存在を認めると、この世の不条理を目にしても、その理不尽にもなんか自分の知らない事情があったらしい、という気持ちになれる気もします(`・ω・´)